「誰かのために」

2015-06-09

「誰かのために」って必死に頑張ってきた人は、あるところで「私の機嫌を取りなさいよ!」って人に変わる。誰かのためにどんなに頑張っても報われなかった恨みを晴らすべく、身近な、その人を愛してくれている人にそれを求める。だから被害者と加害者は紙一重。

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これは、 “元はどちらも被害者である” ということです。
置かれた状況次第で私達はどちらの立場にもなり得るし、どちらの魂も潔白なのです。
産まれながらの被害者も、産まれながらの加害者も、本来はいないのですから。

面白いことに、世の中には「自分が被害者だ」と思っている人はいても、「自分が加害者だ」と思っている人はいません。
客観的に見れば間違いなく加害側になる“DVをする人”であっても、「自分のほうこそ被害者だ」と思っているものです。

また、我が子のために自分を後回しにして尽くす母親がいたとします。
この母親の「あなたのために」と思っての言動は、自ら被害者を選んでいます。
しかし、子供にとってお母さんが自分のために犠牲をする、ということは、決して嬉しいことではありません。
子供にとっては、お母さん自身が幸せでいてくれる方がよほど安心出来るのです。

更に「あなのために」の裏には、「だから私を安心させて」というメッセージが隠れています。
そして思い通りにならなかった時には、がっかりすることで子供に罪悪感を負わせるのです。
多くの傷つき体験は、その人を傷つけようとして起こるのではなく、「良かれと思って」から生じるのが皮肉なところです。

そうして、誰も悪い人はいなかったにもかかわらず、罪悪感を持つことになった子供がそのまま大人になります。
その人の人間関係は、『被害者になるか、加害者側になるか?』の二者択一になってしまいます。
そうなったら当然、誰もが「加害者役は嫌だ」と思うでしょう。

では、その役割がどのように選択されるのかわかりますか?

それはどちらが先に被害者になるか…?なのです。
被害者役を取られたら、残った方は加害者役をするしかありません。

そして加害者側になった方は、「自分のほうこそ被害者だ!」と、パートナーにわからせようとします。
しかし、被害者側だって自分の役柄を譲りません。

こうして、被害者役を取り合う不毛なダンスが、延々と続くことになります。
これが『共依存』のカラクリです。

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